馬鹿なことをしたな、とその男は青年をせせら笑った。
「そんなに帝国が憎いのか。若い娘を殴り飛ばしてでもここを出たいのか」
座り込む青年を上から見下ろす。青年は答えずに俯いたまま。長めの前髪が表情を隠している。尤も、元々薄暗いその場所ではお互いの顔色など分かるはずも無い。
「まあ喜べ」
返事の無い青年を見下して男は朗々と告げた。
「お前もここから出られるぞ」
僅かに青年の肩が動いた。それを見つめて男は面白そうに呟く。
「怖いのか? お前らに心なんてあるわけないと思っていたが、そうでもないみたいだな」
その言葉に青年が身動ぎをした。ああ、と青年はぼんやりと思う。
――心。あったのだろうか、僕に。
遠くから靴音が聞こえてくる。規則正しく刻まれる音が、だんだん近づいてくる。望んでいたはずのことなのに、覚悟はしていたはずなのに、青年の背筋を冷たい汗が流れていく。
「お迎えだ」
飄々と男が言う。足音はすぐそこまで迫っていた。
確かに怖いのかもしれない。けれど、それよりも、頭に浮かぶのは少女の微笑。
どくりと血の廻る音が聴こえる。確かな鼓動が伝わってくる。紛れも無い自分の心臓の音。
青年はずいぶんと感覚の乏しくなった手のひらで、自分の胸に触れた。
冷え切ってはいるが、波打つ音は止まらない。
まだ、朽ちていない。
「そうだ」
足音がすぐ傍で止まる。後ろを向いてそれを確認してから、男は青年を舐めるように見つめて言った。
「あの娘の傷はあと数日もすればすっかり癒えるだろう。意識も戻り始めてる」
残念だったな、と薄く笑う男。
それを視界の端に入れたまま、青年は一瞬、自身の息が詰まったのが分かった。次いで押し寄せてきたのは、安堵。
傷は、消えるのか。
それから、ふっと青年は顔を上げた。男の目が見開かれる。
暗闇に光る赤き瞳。少しこけた頬にどこか満足げな笑みを浮かべ、青年は囁く。
「……それでいい」
あの綺麗な肌に、大きな痣はあまりに不釣合いだから。
男に届く前に、ガシャリという音でその声はかき消される。一拍おいて、大きな錠前が外された。
皮肉気に笑う男に、自身を荒く掴む腕に、一刻一刻と迫るその時に、抗う気はなかった。
それでも、心のどこかにあったのは。
――白い肌に痕が残るほど痛めつめて、存在を刻みつけてやりたかった。
またいつか、と微笑んだ少女の姿が、脳裏を掠めた。
白の追憶
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09/07/28 Thank you for reading.