青年は少女を待っていた。
 一日、というにはあまりにも長い時間が経ったような気がする。今まで毎日牢を訪れていた少女だけど、多分、数日間来なかった。
 それを確認する術すらないことに腹が立つ。
 自分と世界を繋ぐのは、少女しかない。そして、その少女と自分を繋ぐものは何も無い。
 舌打ちをひとつ。
 青年はごろりと寝転がると、つまらなそうに息をついて瞳を閉じた。
 ――そうして過去に想いを馳せるのは、初めてのことではなかった。


 たぶん、『彼女』への想いは愛だった。
 断言することができないのは、今となっては、『彼女』を思い出すことすら苦しいからだ。
 騒音に紛れる声のように、途切れ途切れで思い出される過去。
 ――俺が護ってやる、だから
 頬を染めて頷いた『彼女』の手をひいて、生きていくのだと思っていたあの頃。
 そしてそれは、きっと幸せなことだった。


 青年は自分を辿った。過ぎた時を、巡っていく。


 剣が好きだった。好きだった、というのには御幣があるかもしれない。生きるため、護るために剣が必要だった。
 生まれたのは、王都より程遠い、それなりに大きな街だった。裕福な家の者が多く、そんな街で両親が経営していたのは傭兵所だった。
 経営は母が主に行い、父は現役で剣を振っていた。だから、物心ついた時には、木の棒を持って父の背中を追いかけていた。仕事を求める剣士や術士たちにも相手をしてもらい、とにかく身体を動かしたのが幼少期。
 親が何十人といるような環境。幸せだった。

 隣に花屋があった。『彼女』はそこの一人娘だった。
 ふっと、記憶が霧に紛れる。『彼女』が遠ざかっていく。
 思い出せない。『彼女』がどんな顔で笑っていたのか、どんな声で自分を呼んでいたのか、どんな手つきで花を扱っていたのか。
 もう、思い出せない。
 鮮明に覚えているのは『彼女』への想いだけ。
 自分の中にあった、『彼女』だけ。
 それから――

 “生きてる方がいいに、決まってる”

 青年はハッと目を開いた。
「………っ」
 息を吸う。それから、もう一度目を閉じた。
 『彼女』が消えてしまわないように。
 『彼女』への想いを、忘れてしまわないように。
 『彼女』に感じた胸の痛みに重なる、一人の少女の姿を遠ざけるように。
「駄目だ」
 強く、青年はひとりごちた。
 『彼女』が消えていく。
 現在を生きる、前を見据える、少女の眼差しが脳裏を掠める。
「……駄目だ」
 『彼女』を忘れてしまいたくない。
 『彼女』を――忘れては、いけない。
「駄目だ…っ」
 悲痛な声が牢に響く。応える様に、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。
 青年は泥に沈むようにして、眠りについた。




 久しぶりに牢へやってきた少女は、いつもと違う顔つきをしていた。
「ごきげんよう」
 気取った挨拶。お決まりの台詞。
「――やあ」
 にっこりと笑う少女の違和感に気づかないふりをして、青年は片手を挙げた。少女はいつものように、青年の牢の前に座り込んだ。
 それからしばらくして、少女が口を開いた。
「……どうして何も言わないの」
 意味を問い返すかわりに、青年は少し目を見開いて少女を見つめた。しかし少女は俯いたままだ。しかたなしに、青年は「何って?」と口に出して告げる。
「気づかないふり、するんだ」
 少女は力ない笑みを唇に刻んだ。そうして、顔を上げて青年を見返した。
 青年が目を細める。少女の言いたいことがわかったからだ。
 どうして、今日の自分はどこか変なのにその理由を聞かないのか――と少女の瞳が物語っていた。それになぜだか無性に腹が立って、でも理由がわからないから、どうしていいのかさえも分からずに――結局、今度は青年が俯いた。
「あんたが何も言わないなら、俺は何も聞かない」
 思いのほかいつも通りの声が出たことに、青年はほっと息をついた。
 ところが少女は「どうして」と再び伏し目がちに呟く。
「――どうして、いつも通りなの」
「は?」
 思わず聞き返す。
 すると、いきなり少女が顔を上げた。ガシャン、と鉄同士がぶつかり合う音が耳を劈く。驚いてぱっと顔を上げると、少女が牢の扉の鉄格子に手を掛けて、こちらを見ていた。
 そうして、泣いていた。
「……何で、優しいの?」
 呆然とその光景を見つめる。
 か弱い少女が牢に閉じ込められている、そんな錯覚を覚えた。
「毎日会うと片手を挙げて挨拶したり、私の夢に微笑んだり、どうして……っ!」
 青年は、聞いたことがなかった。こんなに切ない人間の声を。
 そして、悟った。
「……聞いたんだ」
 何を、とは言わなかった。少女も聞き返さなかった。
 ただ、少女の震える肩を見つめて、青年はぼんやりと“あの日”のことを思い出していた。

 自身の剣で『彼女』を貫いた、あの日のことを。

「……っ、なにか……」
 不安定に揺れる声で、少女はそれでも叫んだ。


「なんとか言いなさい――カイン!」


 ――こんな形で、名前を呼ばれたくはなかったな。

 青年はそう言って目を伏せた。









巡る声
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  10/03/24  Thank you for reading.