いつも
ふと、額に触れるものに気づいて目が覚めた。
「……起きたんだ」
少しだけ驚いたような、どこか安堵したような声。離れていく指の暖かさを追うように、机から身体を起こして傍に立つ人を見上げる。彼はポリポリと頬を掻いて微笑んだ。
「涎」
ばっと腕で口元を隠す。伏し目がちにゴシゴシ擦ると、嘘だよ、と楽しそうな呟きが聞こえてきた。頬を膨らませて上目遣いに睨みつけてやる。
「もう……ホントにあんたは。来たなら起こしてよね」
「うーん。でも、すごい気持ちよさそうに寝てたから」
邪魔しちゃ悪いと思って、と言って彼は肩を竦めて見せた。
窓を背にして立つ彼の首の辺りから、オレンジ色の光が漏れている。いつの間にか日が沈みかけていた。キレーな夕日だね、と言いかけて何となくやめた。
ガタンと椅子を引いて立ち上がると、彼が何も言わずにカバンを差し出してきた。
「ここで渡すのがあんたらしいよ」
苦笑して受け取ろうとすると、ふっと目の前からカバンが消えた。新手の悪戯か、と彼を見上げると、彼は偉そうな口調でこう言った。
「今日ぐらい持ってやるよ」
「ふうん。新しくできた駅前のパフェは奢らないよ?」
「もう食べたからいいよ」
「ええっ」
まだ食べてないのに先越された…と嘆くと、お決まりの台詞。
「ま、嘘なんだけど」
……無言で腹を拳で殴る。たいして痛くもなさそうに、彼は声をたてて笑った。
「いいよ別に、見返りなくても」
その返答に驚いて彼を見上げる。光を背にしているからか、表情が読み取りずらい。
「……そんなに驚いた顔しなくても」
俺をなんだと思ってんだ、と恨めしそうに彼が呟く。今のは実際に顔を見なくても分かった。きっと、拗ねたように少しだけ唇が捲れているはずだ。思い浮かべて思わずふふっと笑うと、カバンで軽く頭をどつかれた。
「最後じゃん、二人で帰れるの」
ほらお前明日から放課後学習会あるじゃん、と彼は言う。いつもと何ら変わらない声で。
「………ん、そうだね」
「だから」
それだけ、と言い残して彼は教室のドアへと歩き始る。彼という壁がいなくなったからか、丁度彼がいた方角から、夕日がぱぁっと全身を照らし出した。つい先ほど綺麗だと思ったその光は、少しばかり眩しすぎた。
はっとして、ガラガラとドアを開ける彼を見つめた。息を吸う。
「ねえ、」
もしかして遮ってくれてたの?
そう訊ねようとしたけれど、何故か喉につかえて言葉にならなかった。
「ん?」
立ち止まって振り返る彼に、首を振って小走りで追いつく。
何でもないよ、と呟いた自分の声がどことなく頼りなかった。
校舎を出て通学路を歩き始めたとき、唐突に彼が言った。
「何で東京なの?」
「ん?」
主語がない問いかけ。思わず聞き返して見つめると、彼は「ほら」と手を振った。会話の途中で身振り手振りが入るのは彼の癖だった。
「どうして東京の大学を選んだのか、と思って」
「そう言われてもね……」
ただ単純に行きたかったからだ。
田舎から抜け出して、少しだけ世界の違う空気に触れて、たくさんのことを学んで――自分がどこまでやれるのか見たかった。
ただ、そう言ってしまえばそれでお終いのような気がした。だから代わりに、はぐらかすように肩を竦めてみせる。
「結構いるし。東京に進学する人」
「俺みたいに地元で就職する人も、結構いるけど」
どこか面白がるように彼が言い返す。
……じっと三秒。
見詰め合って、負けたのは自分だった。少しだけ視線をずらした。
「別に」と切り出す。「都会に行ってみたかっただけ」
「それだけかよ」
今度は面白くなさそうに彼が呟く。
「フツーで悪かったわね!」
むっとして言い返す。そのままズカズカ歩き出すと、彼が歩いて追いついてきた。……さっきは自分が小走りでついていっただけに、何か腹が立つ。
「別に悪いなんて言ってないじゃん」
「そーかい」
ぶすっとしたまま答えると、彼は既にいつもの調子で話し掛けてきた。
「てかさ、連絡先教えて」
「変わんないよ、ケータイはそのままだし」
「そっか」
ふっと伏し目がちにして、彼は続けた。
「ドラマとかで、誰か離れていく人がいるとさ。皆そう言うじゃん。だからちょっと言ってみただけ」
「あー言うね」つい数年前に見たような気がする。あのドラマは現代より二十年程前の設定だったはずだ。「今の時代、ケータイさえあれば住所なんてすぐ聞けるけど」
「ま、俺はケータイあんまり使ってないし」
「もーホント嘘つき」
そう言って見上げる。意図的にか、はたまた偶然か――再び夕日を背にして、彼は笑った。いつの間にか分かれ道にきていた。
「行ってこいよ。連絡なんてすぐとれるんだし」
ドクンと心臓が波打つ。無意識に視線が逸れる。……彼の笑顔をこうして見れるのも、あと何回あるか分からないのに。
「……別にあんたに言われなくても、行くって決めてたし」
自分の靴を見つめながらそう呟く。
「まあ、俺が言っても何も変わんないよな」
だから、彼がどういう顔でそう言ったのかわからなかった。
ばっと顔を上げて彼の顔を見つめる。口を開く。
「そ、」
そんなことない――と言いかけて、
「そうだよ」
と唇が紡ぐ。彼の言葉を肯定して笑う自分を、蹴り飛ばしたくなった。
彼は笑っていた。東京へ進学すると告げたあの日と同じだけど――いつもの他愛ない会話の時とは、少しだけ違った顔で。
「じゃ、学習会頑張れよ」
ぽん、と頭に微かな温もり。ゆっくりと彼が方向を変える。
遠ざかっていく後姿をぼんやりと見つめた。
別に彼氏でもなかった。たまたま家の方向が一緒で、たまたま同じ中学校から進学した人がお互いしかいなかっただけだ。
それでも――
「……好きだったんだよ、ばかぁ」
そう呟いた声はいつもより何倍も小さくて、彼に届くはずもなくて。
だから、ねえ、と大きな声で叫んだ。
驚いた顔をした彼が振り向く。
すっと息を吸う。
「――じゃあね!」
そして大きく手を振る。
彼の顔は、もうよくわからなかった。それでも大きく手を振り返してくれたことだけはわかった。
多分これでいい。違う道を歩み始める自分たちは、これでいい。
さっき見た笑顔が、別れを寂しく思ってくれていることを信じて。
最後についた嘘に、後悔はしていなかった。
嘘つきな彼と私
告白の言葉の代わりに 別れの言葉を
某神作曲家さんのCDに入ってた曲をエンドレスリピートしつつ書きました。
あとで男の子視点もうpしたいなーあ。
10/03/12 Thank you.