ぼくが目を開けたとき、覚えているのは自分の名前だけだった。
 ゆっくりと起き上がって、辺りを見渡す。柔らかな緑がどこまでも続いていた。
「ぼくの名前はアオ」
 一度、呟いてみる。
 そう、アオ。だけど、その他は?
 考えても考えても答えは出てこない。それもそのはず、『何がわからないのか』がわからないのだ。
 ううん、と少し唸って、ぼくはまた、ぽすりと草に背中を預けた。暖かい匂いがした。
 少しの間、瞳を閉じる。それから、ふと疑問に思った。
「暖かい匂い?」
 それは何だろう。ぱちくりと瞬きをする。ぼくは今、何を想ってそう感じたのだろうか。
 こてん、と横に顔を向ける。色の抜けた緑色が、頬をくすぐった。
 しばらくそうしていて、それから小さく声に出して呟いた。
「わからないなあ」
「なんだって?」
 すぐに言葉が返ってきた。まさか返事がくるなんて。起き上がって、問いかける。
「ぼくの他に、誰かいるの?」
 普通に言ったつもりだったけど、上ずった声になった。嬉しかったのだ。
「いるから返事するんだろうね」
 呆れたように声が言う。きょろきょろと左右を見ても、誰かの姿は無い。
「どこを見てるんだい。ここだよ、ここ」
 ぱあ、と陽の光が強くなった。眩しさに思わず上を見上げる。あっ、と声が漏れた。
「やっと気付いたのか」
 にやりとした笑いを含んだ声の主は、ぼくのはるか上にいた。
「世界が上にも広がっていることを忘れてはいけないよ」
「……あなたは誰?」
「私はタイヨウ。この世界に光を与えるもの」
 「ぼくはアオ」と自己紹介をすると「知ってるよ」と一言返ってきた。吃驚した。
「ぼくのこと、知ってるの?」
「知っているとも。私が一番君に近い者だからね。けれど、君が誰であるのかは、君が探さなければいけない」
 タイヨウはゆっくりと諭す様にそう言って、一筋の光で緑の大地に道を拓いた。ほら、と言ってぼくの背中を強い光で照らす。
「待ってよ、ぼくはまだここにいたいよ」
「駄目だ。」
 タイヨウの口調が荒くなった。強く、ぼくに語りかけてくる。
「君は歩かなければいけない。立ち止まってはいけない」
 ぼくの瞳に涙が浮かんだのを見てか、タイヨウは口調を和らげて、今度はあやすように背を照らしてくれた。
「さあ、行くんだ。君は私たちにとって大切な存在なんだよ、アオ」
 最後にぼくの名前を優しく呼んで、タイヨウはそれきり喋らなくなってしまった。同時に、道を示すもの以外、一切の光が消えた。上を見上げると、宇宙を透かした様な暗闇が広がっていた。
「宇宙って何だろう……」
 首が痛くなるくらい、長い時間天を仰いだ後でぽつりと呟く。返事はなかった。
 ぼくの身体が覚えている、匂いや言葉。ぼくの中から次々と新しい言葉が生まれてくる。どういう意味何だろう。どうしてぼくは、それを知っているのだろう。何だろう、どうしてだろう、がぼくの中で渦を巻く。
 もう一度、広がる黒を見つめた。ぼくが目覚める前もこんな色だったのだろうか。それに応える様に、ぼくの中で何かが鈍く音をたてた。
 それから、光を辿ってぼくは歩き出した。


 どれくらい進んだのかはわからない。一向に周りの景色に変化がないのだ。
 しかし、ぼくの中で変化は確実に起こっていた。
「……そっか」
 ぷかり、と頭の中に浮かび上がってくるもの。思わず呟く。
「これは、草っていうんだね」
 しゃがみこんで、緑色――草に手を触れる。少し硬い感触がした。
 ぼくの中から、ぷかり、ぷかり、と何かが浮上してくる――きっと、これは『記憶』の断片。ぼくが忘れている、何か。
 ぼくの中の『ぼく』は、たくさんのことを思い出させてくれる。きっと、『ぼく』のことを、早く思い出して欲しいのだと思う。
「でも、違うかな」
 そう思ってから、自分で自分の考えに首を振った。
 そう。たくさんのことは思い出せたけど、どうしても、ぼく自身のことが思い出せないのだ。
 『ぼく』のことを思い出して欲しいのなら、きっともっと違う記憶の欠片を探してくれるはず。
「ぼく自身についての記憶を、思い出させてくれるはずだよ」
 そう呟くと、ぼくは立ち上がって自分の後ろについた草を軽く払った。そのうちのいくつかが、風に舞う。
「……きれい」
 素直にそう感じた。
 でも、花びらなら――桜の花弁なら、もっときれいだと思う。
 柔らかい緑色は、草。暖かい匂いは、お日様――太陽の匂い。宇宙は、無限に広がる闇。
 そして――ソラは、蒼いということ。
 今は太陽が出てこれたから昼のはずなのに、どうしてかソラに広がるのは黒ばかりだ。
 ソラの色についての疑問。それと、ぼく自身のこと。
「もっと、いろんなものに触れたい」
 それは素直な思いだった。
 触れて、それが何かを確かめたい。

 そうすれば、きっと、ぼくの探す何かに辿り着けるような気がするから。






Piece of the memory
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  08/11/05  Thank you for reading.